木部新保


 古くは新保村と称したが、泥原新保村(三国)や磯部新保村(丸岡)と区別するため明治初期に木部新保に統一された。(新保とは国の領地の追加開墾地を意味する)明治6年に民家を借りた木部小学校ができ、25年まで存在した。

 集落内にある紀倍神社は、大沢の鬼退治の祈祷所に由来する。天正3年(1575)兵火により建物は焼失したが、神体と神輿は守りぬき、後年再興されたと言い伝えられている。木部新保の39字爪の跡、41字小池、43字大沢、46字鬼後などは水鬼退治を思わせるのに十分な地名であり、15字休場は鬼退治跡の休み場所を意味するものと伝えられている。また、九頭竜川沿いにある田上神社の鳥居は、室町時代後期に造られたものである。

 集落内にある永福寺は、もとは東村(木部東)にあったものが現在の地に移転したといわれ、願行寺は、もとは徳正寺という寺号であったが、享保9年(1724)福井藩主松平宗矩の死後、その法号徳正院を避けて願行寺と改めたという。

 また、越前朝倉氏の一族である向氏の屋敷「木部新保館」があったとされる。

越前朝倉氏二代高景の5子、向駿河守久景の子、光繁が永正元年(1504)鬼辺郷を領してその子久家と共に当村に居館したという。向氏館跡と思われる地は明治初年の地籍図で72字「舘屋敷」73字「岡田屋敷」が館跡で環濠と土居が描かれている。