清永


「清永」という地名は弘安期(1278~88)の興福寺領川口庄兵庫郷名寄帳に記載されている。江戸期から明治 年(1889)までは「清長村と記されていた。『越前国名蹟考』には、朝倉家家臣、伊勢帯刀(たてわき)の屋敷があったと記述があり、10字「舘」・12字「南垣内」一帯が館跡である。「南垣内」には明治32年(1899)まで神明宮があり、一部堀跡も残っていたという遺構から連立式復郭構造と推測され、南隣して6字「辰ノ腰」西には「門口」の小字名が残る。明治6年には清永小学校が設立されており、36年の木部尋常小学校との合併後は分教場となった。さらに42年には木部南小学校に併合されている。

 九頭竜川下流は氾濫を繰り返し、浸水に悩まされていたため、清永から春江町定広(兵庫川から九頭竜川)まで堤防が築かれていた。また、昭和23年の福井地震の影響で天然ガスが発見され、家庭用燃料として利用されていた。

 集落の中心には長和4年(1015)社殿創立の白山神社があり、その境内には天文18年8月の銘がある九重の塔がある。集落の南には延宝期から文化期(1673年頃~1830年頃)に建てられた卵塔のある浄土宗圓成院がある。

 その他、当地区では婚礼時に大量のハタハタを炭火で焼き、砂糖と味噌のたれをつけた「ハタハ

タの味噌田楽」がふるまわれていた。

ハタハタの味噌田楽