高柳


 天正11年の丹羽長秀知行宛行状に高柳の名がある。江戸期の郷帳には木部高柳村と記されている。安永8年(1772)頃、高島勘兵衛が組頭を勤め、安永における丸岡藩の百姓一揆の際には、打ちこわしにあっている。また、八十島九郎衛門は酒造を行っていた。

 集落の南東にある八幡神社には次のような伝承がある。昔、雪の日に情け深い夫婦が飢えた雄雌の鳩を助けたところ、二羽の鳩は種蒔きの季節や実りの秋に小鳥や雀を追い払ってくれた。しかし、ある日ハヤブサに襲われ死んでしまった。夫婦は悲しんで、二羽のために祠を建てて礼拝をおこなったところ富貴の身になったという。その後に、その祠を八幡神社と称し、社殿を改めて祀ったという。

 三国神社の ご神体である大山咋命(山王権現)は、春江町辻に鎮座されたが、その後高柳に遷座され、近くを流れる兵庫川に流された。そのご神体を三国で拾い上げられ、その後現在の三国神社のご神体として祀られていると言われている。