昔、この辺りでタコがとれたからこの地名がついたといわれている。

じょうちん江という小川を挟んで南を蛸、北を蛸渡という二つの集落が隣接しており、藩政時代から明治・大正頃までは別の集落であったが、大正14年に統合されて一村となっている。慶長の「越前国絵図」では蛸は大味郷、蛸渡は新郷に含まれている。

 当村の八十島家は古くから桑酒造りをしてきたが、江戸末期には丸岡藩・鯖江藩や旗本本多大膳家などに多額の貸付を行っていた。

 蛸橋の詰めにある地蔵は昔、天然痘にかかって、体にてんてんとめっちゃこあるので、蛸には天然痘が流行しないという言い伝えがある。