木部東


 縄文晩期の遺跡が存在していることから、最も古い原始村落と考えられる集落のやや北東の字、剃野の兵庫川左岸の自然堤防上に立地していたと推測されるが遺跡の発見は古く、大正6年であった為その後の大規模な圃場整備事業により正確な場所はわかっていない。九頭竜川の右岸三国町の東南に位置することから、江戸時代を通じて東村と称しており、明治初年から木部東村となった。

 言い伝えによると、白山神社の前には、三大仇討で有名な「曽我兄弟の仇討」の曽我十郎佑成の墓の塚石があったとされており、その頃、曽我兄弟の母が当地に一時住んでいて、墓を建立したといわれている。また、十郎の愛人の虎が建立したとも伝えられていて、旧暦5月28日には虎御前の涙雨が降るといわれ、その日に雨が降らないと秋に米がとれないと伝えられてきた。大正2年の耕地整理の際に、塚石は行方不明になってる。

 27字六呂代は六郎城即ち吉野朝廷の忠臣畑六郎左衛門時能の城があった場所と言い伝えられており、三国湊城の出城であったと考えられる。

 昭和25年には木部村・大石村組合立の竜東中学校が設立され、昭和42年に坂井中学校に統合される

まで当集落にあった。