東荒井


 兵庫川西岸の自然堤防上に発達した集落。弘安期(1278~1288年)の興福寺領河口庄兵庫郷名寄帳に地名がみられ、天正3年(1575)の柴田勝家による定書や慶長3年の太閤検地帳の表紙に「川端村」とある。兵庫川筋の川端に集落があったので川端村と呼ばれ、下流に田畑が開かれる際に移転したと伝えられている。江戸期から明治初めまでは荒井村と称し、明治14年県内の同一村名と区別するため、「山荒井」「西荒井」に対し「東荒井」と改めた。なお「アライ」とは新しく開発された居住地を意味する。

 平成8年の区内東側道路拡張工事の際には東荒井遺跡が発見され弥生時代後半の土器を中心として玉作関係工具などが出土している

 集落の東のある春日神社は河口庄十郷十社の一つとされかつては広大な敷地の七堂伽藍が建っていたと伝えられている。神社にはご神体として鎌倉時代の作とされる阿弥陀如来像が安置されている。漆塗りで黒く輝いているので黒仏とも言われ、昭和48年に坂井町内唯一の県有形文化財に指定されている。境内には寛永4年の白山神社祠がある。大正2年に、雅楽保存会の東荒井鳳雲社が設立され、今も地区の人々によって受け継がれている。