鬼辺(木部)輪中

 九頭龍川は白山連峰より美濃国油坂峠に源を発し、山頂重畳の間を縫い渓谷を走り、越前平野を貫通し、坂井市北西の三国港へ注入する越前国唯一最大の荒廃河川といわれている。その下流の九頭龍川・兵庫川・竹田川の河間地域に挟まれた鬼辺郷は低湿な氾濫地域であった。低くて連続しない堤防近くの集落は、洪水ともなれば危機に瀕し、近世中頃まで水防が集落存亡の基本条件であり、各村々が集まり自治的な水防共同体が結成されていた。

 各民家においても石垣を高く築造したり、盛土によって宅地を高くして水害から守り、家屋も稀には3階を造り、そこには食料や寝具などの生活必需品や非常持出品などを保管貯蔵して、浸水の際にも困らないように平常時から心がけていた。各集落は出水時はもちろん、平時でも水防排水に対しては関心が高く、しばしば紛争もおこり、鬼辺輪中内には前後1000年を貫く輪中意識というべき伝統的な集団心理がかもし出されていた。

 また、この地域は古くから水田が開かれており、兵庫川から用水を引水し、九頭竜川に排水することで水稲耕作を営んでいたが、土地の高低差があまりなく降雨のたびに農地が冠水するため、堤防を築いて洪水に対処するとともに、排水路を掘削して排水を良くすることが、農家にとって農業経営上の大きな課題であった。そこで、正善地区(春江町)から清永地区(坂井町)までの村境に堤防を造り、これを九頭竜川および兵庫川の堤防とつなぎ、上流から流れてきた洪水を防ぐ工夫がなされ、集落を囲むような堤防が形成された。これが木部堤防であり、寛政8年(1796)に完成した。
 この堤防は、初めは集落を結ぶ道であったが、洪水のたびに流れ込む水を防ぐために、永い歳月をかけて道を高くするために盛土を繰り返し、それが堤防となったものである。この堤防によって上流の村では水はけが悪くなり、幾たびか争論が生じた。そこで、寛政12年(1800)には、堤防の高さを定める定杭を打って高くすることを規制した。この定杭は堤防とともに、昭和30年代後半に県営土地改良事業が実施されるまで、残されていたと伝えられている。

 木部輪中絵図や福井震災後の航空写真(坂井市HPより)には、この堤防を見ることができる。

        鬼辺輪中絵図 <江戸時代 井上正也氏蔵>

木部堤防跡(春江町辻区)

      坂井市 Web Mapより